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明智光秀(あけち みつひで,1528年-1582年7月2日) 是日本战国名将。织田信长帐下重要将领,全称明智十兵卫光秀。曾任官职:近畿管领、日向守、丹波守护等。关于他的身世在历史颇有争论,有许多种历史传说,出身于美浓国的土岐源氏支族。通称十兵卫,雅号咲庵。惟任光秀。其父明智光纲早亡,受叔父明智光安的照顾。官位日向守。正室为妻木熙子(实为光秀第二任妻子)。明智光秀的嫡男是明智光庆,三女是玉子。
日文简介
1528-1582 戦国-織豊時代の武将。
享禄(きょうろく)元年生まれ。細川ガラシャの父。美濃(みの)(岐阜県)の土岐氏の一族とされる。故実,典礼に通じた教養ゆたかな武将で,はじめ朝倉義景(よしかげ)につかえ,のち織田信長の家臣となって足利義昭の上洛に尽力。義昭や寺社,公家との交渉役をつとめる。元亀(げんき)2年近江(おうみ)坂本城主となり,惟任日向守(これとうひゅうがのかみ)と称した。丹波攻略などに功をたて,亀山城主となる。天正(てんしょう)10年信長を本能寺に討つが,羽柴(豊臣)秀吉に山崎の戦いで敗れて逃走中の6月13日農民に殺された。55歳。通称は十兵衛。
【格言など】仏の嘘(うそ)をば方便といい,武士の嘘をば武略という。是を以て之を見れば,土民百姓は可愛きことなり