中文简介
日本明治维新时期的主要政治人物之一。出身於德川家族的旁系,1838年松平继其父成为日本中部的福井藩主(32万石),他在此兴建了一座西方式的兵工厂,鼓励教育事业,并发展医疗设施。1853年美国舰队司令马休·佩里来航,要求日本开放门户,与外面世界通商往来,使日本政府濒临重大危机。身为国家重臣之一,他开始时坚持锁国政策,但在1858年签订《日美修好通商条约》以后改变了立场。同年,庆永因将军继嗣问题与大老井伊直弼发生冲突,受到禁闭处分。井伊遭暗杀后获释。1862年出任幕府政事总裁,为了安抚各地大名,废除参觐交代制度。松平庆永力主国家团结,在政府从给天皇更多的权利。1864年曾参加促使天皇家族和幕府合作的藩主会议。会议破裂后他继续在幕府任职,等待这两个集团必不可免的冲突的到来,由于他是著名的天皇支持者,维新以后历任要职。
日文简介
1828-1890 江戸時代後期の大名。
文政11年9月2日生まれ。田安斉匡(なりまさ)の8男。松平斉善(なりさわ)の養子となり,天保(てんぽう)9年越前(えちぜん)福井藩主松平家16代。中根雪江(せっこう)らを登用して藩政の改革をすすめる。将軍継嗣では一橋慶喜(よしのぶ)を擁立。安政5年大老井伊直弼(なおすけ)と対立して隠居謹慎となる。文久2年政事総裁職について公武合体につとめる。明治2年民部卿兼大蔵卿。3年すべての公職を辞した。明治23年6月2日死去。63歳。号は春岳,礫川。越前守。著作に「逸事史補」など。
【格言など】家臣の罪を蒙り候に及ばざりしは国家の幸甚に候(隠居謹慎のおり家臣にあてた書状)