中文简介
六角承祯(1521年-1598年4月19日),为日本战国时代南近江的大名,六角家的家督。六角承祯本名六角义贤,1552年父亲六角定赖死后继承六角家家督之位。由于六角承祯也数次进入近畿与三好长庆作战,一度控制山城国掌握京都。并且逼迫浅井久政从属,将家臣平井定武之女嫁给久政之子浅井长政,也发兵北伊势,并透过联姻,将重臣蒲生贤秀之妹嫁给北伊势的神户具盛、关盛信,将两人纳入账下。由于浅井长政囚禁父亲久政并图谋从六角家自立,六角义贤于1560年发动两万大军进攻浅井长政,而在野良田合战被浅井长政奇袭而大败,也因此六角承祯将家督的地位让与儿子六角义治而出家,并改名为六角承祯。 但是六角义治是较其父亲更为愚暗的家督,1563年,六角义治由于杀害六角家重臣后藤贤丰而引发观音寺骚动,导致六角家内部的分裂;1568年,织田信长发兵上京都之时,六角承祯父子因与三好三人众结盟,而跟织田信长为敌,当织田信长统领大军杀
日文简介
1521-1598 戦国時代の武将。
大永(たいえい)元年生まれ。六角定頼(さだより)の長男。足利義晴(よしはる)・義輝(よしてる)らを擁して三好長慶(みよし-ながよし)らとたたかう。天文(てんぶん)21年家督をつぐ。弘治(こうじ)3年長男義治(よしはる)に家督をゆずり,剃髪して抜関斎承禎(ばつかんさい-じょうてい)と号したが,同家の実権をひきつづきにぎり,永禄(えいろく)10年六角氏式目を制定。11年織田信長の京進出を阻止しようとして敗北,六角氏滅亡をまねいた。慶長3年3月14日死去。78歳。