中文简介
相良义阳(1544-1581)幼名万满丸,父亲为肥后大名相良晴广,相良家本为藤原南家乙麻吕流一脉的后裔,以藤原为宪的后裔周赖为远祖,因世居远江引佐郡相良庄,故称为相良氏。在源平合战时,相良家属于平氏一方,所以在源赖朝开创幕府后,相良家被远放到九州岛肥后担任多良木庄的地头,后一度分成以多良木庄的上相良氏跟人吉庄的下相良氏,在进入战国时代后下相良氏的相良长续,击败上相良氏,一统肥后球磨、八代、苇北三郡。后来十六代当主相良义滋无嗣,遂引一族的上村赖兴之子为继,也就是义阳之父相良晴广,相良晴广为相良家的一代英主,在实父上村赖兴的辅佐下,不但开通对明朝的贸易,同时沿袭前代大名的法规,更完善地制订出相良氏法度中后二十一条,同时善待百姓加强民政方面的建树,巩固了相良家对南肥后的统治。
日文简介
1544-1581 戦国-織豊時代の武将。
天文(てんぶん)13年生まれ。相良晴広の長男。天文24年肥後(熊本県)人吉城主となる。日向(ひゅうが)(宮崎県),薩摩(さつま)(鹿児島県)でたたかい勢力をふるうが,薩摩の島津義久に水俣城で敗れ,阿蘇方の甲斐(かい)氏攻撃を条件に講和。甲斐宗運(そううん)とたたかい天正(てんしょう)9年12月2日戦死。38歳。初名は頼房。