中文简介
毛利辉元(日文:もうり てるもと;英文:Mouri Terumoto;1553年2月4日-1625年6月2日),战国时代到江户时代前期的大名,丰臣五大老之一,关原合战中西军总大将(被拥立)、长州藩第一代藩主。毛利辉元幼名幸鹤丸,法号幻庵宗瑞,通称安艺中纳言。战国第一智将毛利元就之孙,毛利隆元长子,其母为内藤兴盛之女。其父隆元早卒,由祖父毛利元就抚养,成人后拜领当时幕府大将军足利义辉的偏讳辉字改名辉元。元龟二年(1571年),祖父元就去世,辉元继任家督。任内先被丰臣秀吉击败而不得不向其臣服,直到天正十年(1582年)与丰臣秀吉讲和。以后积极协助丰臣秀吉,在四国征伐、对朝鲜之役担当先锋。当时他的领地有120万石,在小早川隆景死后,成为了五大老,势力仅次于德川家康。丰臣秀吉死后开始形成以德川家康及石田三成为首的两派阵营,毛利辉元起初曾考虑加入德川一方。但被客卿
日文简介
1553-1625 織豊-江戸時代前期の武将。
天文(てんぶん)22年1月22日生まれ。毛利隆元の長男。永禄(えいろく)6年(1563)家督をつぐ。織田信長の勢力に対抗,本能寺の変後は豊臣秀吉と講和した。中国9国に112万石を領し,豊臣政権の五大老のひとり。関ケ原の戦いで西軍の総大将格となり,戦後は周防(すおう),長門(ながと)の2国に減封された。寛永2年4月27日死去。73歳。法名は宗瑞。
【格言など】将軍家への御奉公をおこたらず,家名存続を第一に考えよ