中文简介
真田昌幸(1547年10月1日~1611年7月13日),日本古代著名军事家、政治家、谋略家,战国时期得享盛名的智将,被丰臣秀吉誉为"表里比兴之者"(意思接近墙头草,但为褒义)。真田幸隆三子,幼名源五郎。出嗣武田的同族,称为武藤喜兵卫;天正三年(1575)长筱之战,两兄真田信纲、真田昌辉一同战死,始回真田家继任家督,将姓改回真田,取名昌幸。关原会战时,昌幸与次子信繁加入西军。西军败北后,昌幸赖归属东军的长子真田信幸(1566-1658)向德川家康求情,免去一死而和信繁被流放至纪伊国高野山麓的九度山,后在当地病殁。官位是从五位下安房守。
日文简介
1547-1611 戦国-織豊時代の武将。
天文(てんぶん)16年生まれ。真田幸隆(ゆきたか)の3男。真田信之・幸村の父。武田氏滅亡後,徳川家康に,のち豊臣秀吉にしたがい,信濃(しなの)(長野県)上田城,上野(こうずけ)(群馬県)沼田城をえる。関ケ原の戦いの際は徳川秀忠軍を上田城で阻止。戦後,所領を没収され,紀伊(きい)高野山麓九度山(和歌山県)に流された。慶長16年6月4日死去。65歳。通称は喜兵衛。
【格言など】上田城の備えは城郭の固めにあらず,ただ大将の一心に在る