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今川义元(1519年-1560年6月12日),是日本战国时代骏河名门今川氏的第11代当主。史载今川义元为镰仓八幡太郎源义家系的名门,室町幕府足利将军家的同族。今川义元是今川氏亲的五子,在兄长氏辉暴毙后,借生母寿桂尼和军师太原雪斋之力夺取家督继承权(史称花仓之乱)。成为今川家第十一代家督。今川义元继位后,致力于改善与武田家的关系。在他的周旋下,武田家武田信虎之子武田信玄迎娶了京都公卿三条公赖之女,自己则娶了信虎长女定惠院为正室,结成强固的婚姻同盟。 但引起武田家宿敌北条家的不满,两家关系破裂,遂与上杉联合。天文二十三年(1554),在军师太原雪斋的努力下,甲斐武田氏、相模北条氏与今川氏在善德寺结成三国同盟,义元之子氏真迎娶北条氏康之女,氏康之子氏政迎娶武田信玄之女,信玄之子义信迎娶义元之女。此后,今川家势力所及远江、骏河、三河及尾张南部,所领达百万石以上,达到了今川家的全盛期。擅于弓术,时称
日文简介
1519-1560 戦国時代の武将。
永正(えいしょう)16年生まれ。今川氏親の子。母は寿桂尼。兄氏輝の死で駿河(するが)・遠江(とおとうみ)(静岡県)を領国とする家督をつぐ。太原崇孚(たいげん-そうふ)に補佐され,織田氏を攻め三河(愛知県)も支配,今川家の全盛時代をきずく。北条氏康,武田信玄と三国同盟をむすんで東方を安定させたのち,永禄(えいろく)3年西へむかい尾張(おわり)(愛知県)に侵入。織田信長の奇襲をうけ,桶狭間(おけはざま)で同年5月19日討ち死にした。42歳。
【格言など】第一なすべき文・武を,二つながら廃せり。今これを改めずんば,国覆り家滅せんこと必定なり(息子氏真にあたえた教訓)