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(在位:884年-887年)日本第58代天皇,是仁明天皇的儿子,论起来是阳成天皇的爷爷辈。他暮年登基,自然对藤原基经感戴不尽,事藤原氏唯恐不谨。光孝天皇即位前,曾出任过一些地方官职,有一定的政治阅历,按理说应该为恢复天皇权力做一番努力。可是,他一即位,就下诏让藤原基经代摄一切政务。他还把自己的29名子女全部赐姓源氏,降为臣藉,未立太子,以示在立嗣的问题上,也要完全听从藤原基经的安排。光孝天皇继位前生活得很拮据,经常向亲友借贷,以致债台高筑,无法还清。他当了天皇后,债主整天在皇宫门前讨债,弄得他好没面子,只好动用公款,用国库的钱来还债。
日文简介
830-887 平安時代前期,第58代天皇。在位884-887。
天長7年生まれ。仁明(にんみょう)天皇の第3皇子。母は藤原沢子。陽成(ようぜい)天皇の譲位をうけて,元慶(がんぎょう)8年55歳で即位。政治の実権は先帝時代からひきつづき藤原基経(もとつね)がにぎり,実質上の関白として天皇もすべてを基経に諮問した。在位3年にして,仁和(にんな)3年8月26日死去。58歳。墓所は後田邑陵(のちのたむらのみささぎ)(京都市右京区)。諱(いみな)は時康(ときやす)。別名に小松帝。
【格言など】君がため春の野に出でて若菜摘むわが衣手に雪は降りつつ(「小倉百人一首」)